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断腸亭日乗
読み終わったのは2008年7月28日

永井荷風は外国かぶれで相当シニカルな人物だったのだろう。日記のトーンにはそれが溢れ出ていて、きっと実際にあったら嫌な人だなと思うに違いない。

そんなこともあって、世相の観察はその調子で行われるのだが、それに慣れてしまえば面白い記述が満載だ。

 「午前十時頃飛行機の饗盛に起り児童のよろこび叫ぶ声聞ゆ。…そもそも飛行機は近時西洋人の発明せしものなるを、わが日本人忽そが製造の法と操縦の術とを学び頗得意の色をなせり。自働車自転車の如きもまた然り。日本人の得意となす所は他国の人が苦心惨澹の余発明せし所の物を窃取して恬然としてはぢざる所にあり。その剽疾ケイ捷なるはマコトに驚くべし。開国以来六十一年一物の創造発明する所なきもまた一驚に値すというべきなり。」

日本人の好戦性は昭和7年の記述にも書かれている。

  「銀座通商店の硝子戸には日本軍上海攻撃の写真を掲げし処多し。蓄音機販売店にては盛に軍歌を吹奏す。時に満街の燈火一斉に輝きはじめ全市挙って戦捷の栄光に酔はむとするものの如し。思うにわが国は永久に言論学芸の楽土にはあらず。わが国民は今日に至るもなほ往古の如く一番槍の功名を競い死を顧みざる特種の気風を有す。」

このあたりから軍国主義化の予兆が見られる。奇しくも上の記述の翌日、三井の団琢磨が暗殺される。日清戦争を皮切りに以降10年おきに戦争があり、国民は軍歌を聴き、子供には兵器の玩具を買い与えるようになった。「軍隊の凱旋を迎る有様などは宛然祭礼の賑に異らず。」と荷風がいうように徐々に戦勝に酔う風潮が明確になってきた。荷風が世間の空気が一変したといっているのが昭和6年に起きた満州戦争である。

一変した風潮が取り戻せないところに至るのが昭和7年(1932年)5月15日。海軍士官により官邸が襲われ首相の犬養毅が暗殺される。5・15事件である。イタリアで勢いを持ったファシズム勢力の模倣か、日本古来のものなのか、いずれにせよ軍国主義への道が決定的になった。荷風はこのとき諦めの気持ちになり、こう書いている。

 「今日の如き時勢にありて安全に身を保たむとするには江戸時代の人の如く悟りと諦めの観念を養はざるべからず。三縁山の鐘の音は余が心にこの事を告げ教ふるものなるべし。」

(ちなみに三縁山は増上寺のことらしい)

銀座のカフェー(これはきっと今のカフェとは違うものだが)や酒場に対し、官憲の取り締まりが始まり、昭和10年には彼が足しげく通ったカッフェータイガーも店を畳んでしまう。

また別の暗殺事件をもって、「日本現代の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なき事の三事なり」といい、「政党の腐敗も軍人の暴行もこれを要するに一般国民の自覚に乏しきに起因するなり」という。そしてその数週間後2・26事件が起こる。

昭和14年にもなると憲兵隊がオペラ館の出し物の内容を検閲にやってくる。国木田独歩の小説は発禁になり、ハムレットの上演が禁止される。

驚くべきは太平洋戦争へ突入する状況だ。開戦の2年前、昭和14年の12月の段階で白米の販売が禁止される。白い米を食えない状況なのだ。翌昭和15年には学生の飲酒の禁止や夜間の電力不足が記録されている。銀座・浅草での夜遊びが大好きな荷風の生活もこの影響か、段々制約されたものになってきている。

「去年の秋ごろより軍人政府の専横一層甚しく世の中遂に一変せし今日になりて見れば、むさくるしくまた不便なる自炊の生活その折々の感慨に適応し今はなかなか改めがたきまで嬉しき心地のせらるる事多くなり行けり」などと言っている。そして一言「かくのごとき心の自由空想の自由のみはいかに暴悪なる政府の権力とてもこれを束縛すること能わず。人の命あるかぎり自由は滅びざるなり。」

アメリカについては日本の朝鮮の植民地としての扱いとアメリカのキューバへの扱いを比較し、「余はかつて米国にありし時米国人はキューバ島の民のその国の言語を使用しその民謡を歌うことを禁ぜざりし事を聞きぬ。余は自由の国に永遠の勝利と栄光とのあらむことを願ふものなり。」

荷風のフランスへの憧憬はこんなところにも現れている。「余は唯胸の奥深く日夜仏蘭西軍の勝利を祈願して止まざるのみ。ジャン・ダルクは意外なる時に忽然として出現すべし。」と奇蹟を願っている。

こうして政府批判をしていた永井荷風だが、この事が知れることを恐れ、まずい部分については消すような作業をしていたが、喜多村筠庭(きたむらいんてい)の「翁草」を読み自分に恥じる。そして、「今日以後余の思ふところは寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし。」と昭和16年の6月ついに腹を据える。その直後に日中戦争に対する彼の観察が述べられる。

「日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満州侵畧に始まる。日本軍は暴支膺懲(ぼうしようちょう)と称して支那の領土を侵畧し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用い出したり。欧州戦乱以降英軍振るはざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然れどもこれは無智の軍人ら猛悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰い手不平を言わざるは恐怖の結果なり。麻布聯隊叛乱の状をみて恐怖せし結果なり。今日にては忠孝を看板にし新政府の気に入るやうにして一稼なさむと焦慮するがためなり。元来日本人には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。欧羅巴の天地に戦争歇む暁には日本の社会状態もまた自ら変転すべし。今日は将来を予言するべき時にあらず。」

戦争が始まる。そして開戦5ヶ月の後、アメリカの爆撃機が東京に爆弾を投下する。新聞は沈黙する。

検閲も段々わけがわからなくなってくる。そして「近年軍人政府の為す所を見るに事の大小に関せず愚劣野卑にして国家的品位を保つもの殆なし。」という。

シニカルな批評ストレートに出るのはこんなところ。

「日本人の口にする愛国は田舎者のお国自慢に異ならず。その短所欠点はゆめゆめ口外すまじきことなり。歯の浮くやうな世辞を言ふべし。腹にもない世辞を言へば見す見す嘘八百と知れても軽薄なりと謗るものはなし。この国に生まれしからは嘘でかためて決して真情を吐露すべからず。富士の山は世界に二ツとない霊山。二百十日は神風の吹く日。桜の花は散るから奇妙ぢや。楠と西郷はゑらいゑらいとさへ言つて置けば間違いはなし。押しも押されもせぬ愛国者なり。」

あまりの苦痛に荷風はフランス語で聖書を読み始める。別にキリスト教に帰依しようというわけではないのだが、なんらかの慰安の道を求めるためだ。

昭和18年の終わりには国民生活は一層厳しくなる。成人は徴兵や工場に動員され、税金はアップし、食糧はままならない。戦争終結時にはこんな程度では済まないと予想しつつ、とにかく終わってほしいと思うようになっている。昭和19年には荷風唯一の慰安であったオペラ館が閉鎖される。

世間の噂は驚くほど早く示唆的だ。19年に九州が爆撃にあい、「国内人心の倦怠疲労今正にその極度に達せしが如し。世人は勝敗に関せず戦争さへ終局を告ぐれば国民の生活はどうにか建直るが如く考えるふうやうなれどそれもその時になつて見ねばわからぬ事なり。」

荷風は明治維新以降の権力について批判的だ。航薇日誌を写しつつこう言う「紀中に現来る人物奴僕婦女に至るまで温厚篤実なりしことなり。過去の日本人の情愛に富みたりし事はアルコックの著書にも見えたる事なり。今日戦乱の世にあたりて偶然明治初年の人情を追想すればその変遷の甚だしき唯驚くのほかなし。明治以降日本人の悪るくなりし原因は、権謀に富みし薩長人の天下を取りしためなること、今更のやうに痛歎せらるるなり。」

相当の女性好きな荷風も昭和19年66歳の誕生日を迎え、漁色の愉しみが尽きたという。

昭和20年5月3日、ドイツ・イタリアの降伏とヒトラーの死が伝えられるが、さすがにフランス解放を喜ぶ心の余裕は無かったように見える。

戦争中には谷崎潤一郎との交流があり、谷崎氏は「細雪」を執筆中だったことがわかる。

昭和20年に入ると日記の記録に「空襲」「警報」「罹災」の時が繰り返し登場するようになる。戦争を体験した人の話に通じるところである。つまり、兵隊として前線に送られたのではなく本土にいて戦争に巻き込まれた人たちの戦争体験というのは、昭和20年の出来事に集約されていることになる。3月10日が東京大空襲だと習ったが、荷風の日記では3月9日に「夜半空襲あり」とあり、そこで彼の家、偏奇館が消失する。この様子はかなり克明に記録されているがこれは避難中に書いたのだろうか。5月に向けて何度かの空襲の被害にあい、ついに東京を脱出する決意し、岡山へと落ち着く。ここで谷崎氏を頼ることになる。

8月15日正午、ラジオ放送で戦争停止が伝えられる。「あたかも好し」というものの、ここまでの戦争に対して何かコメントすることはないのが印象深い


敗戦後、荷風が息を吹き返すかというと、彼が老いたせいだろうか、戦前の夜遊び三昧、世間への不満を打ちまけるスタイルは残念ながら戻ることはなかった。徐々に生活がルーチン化していき、ひっそりと淡々とした晩年となっていく。書いてあること自体は面白いわけではないのだが、「老い」ということをはじめて考えさせられたという点で面白い。


なぜか断腸亭日乗の上巻と下巻の間に西遊日誌抄が収録されている。これは断腸亭日乗の始まる10年以上も前の1903年に書かれた物で荷風がはじめてアメリカ・フランスに洋行したときの日記であって断腸亭日乗とは全然関係ない。あまりに唐突に出てくるので何事かと思うのだが、永井荷風のフランス文化全般とアメリカの自由主義への憧憬がどこに根付いているかを知る上で欠かせない資料である。断腸亭日乗のトーンが一貫してシニカルであるのに対し、荷風がさまざまなものに感動し絶賛している姿が対照的である。大正時代の洋行の記録としてもとても面白く読める。
荷風の西洋かぶれはこの5年ほどの滞在で築かれたものである。もちろん、現代の5年の外国生活とは衝撃の度合いが違うのだろうが、そうとうに影響されたのは人柄によるのかもしれない。

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