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ナポレオン3世
ルイ ナポレオン。ナポレオンの弟の息子。ナポレオン2世はナポレオンと後妻の間に生まれたローマ王。ナポレオン3世の呼び名は皇帝就任のすこし前から使われるようになった。

Napoleon III and His Court (c) 1898より


関連項目

ナポレオン3世の都市計画

第2帝政スタートまでの道のり

第1帝政後、青年時代は亡命生活。サンシモンの影響を受ける。
何度もクーデターや政界入りをくわだてるが失敗していたが、
産業革命の本格化から、労働者階級が選挙権を求めるようになり、
1848年に2月革命がおこり、第2共和政が成立。
この混乱の時期の1848年12月の選挙で
ナポレオン3世が圧倒的勝利を以て大統領となる。
任期切れ直前、大統領の任期を延す議会工作にいきづまり、3度目のクーデターを起し、ティエールの共和派を議会から追放。国民投票で皇帝となった。
ヴィクトル ユーゴーはルイ ナポレオンの皇帝就任に反対。のち亡命。
その後4年ほどで独裁権を手にし、1852年、皇帝となり第2帝政をスタート。ナポレオン3世と称した。

前半(1851-1860)は専政支配による権威帝政。強力な国家体制をもとに
産業革命を進め、経済発展をもたらす。産業の保護。
資本主義発展に力を注ぐ。結果、資本主義の黄金期を迎える。
クリミア戦争(1854-1856)に勝利した。イタリア統一戦争に干渉。
統一援助の見返りに領土を獲得。
1853年にパリ改造に着手。(この年、浦賀にペリー来航)

1860年からは自由帝政。独裁のために反帝政の気運が高まった。
そのため、議会権力の拡大、言論のとりしまりの緩和など自由化政策を
打ち出す。

現実的な政治バランスに優れた政治家だった。
独裁でありながら本人は社会主義者だといっていた。
特定の支持基盤を持たなかった。
国民の人気を繋ぎとめるため、積極的な海外進出を
行い、アロー号事件(1856)で中国へ(アロー戦争)、ベトナムにも植民地を設定。

インドシナ、中東、アフリカに植民地を獲得。

しかし、1867年メキシコ干渉に失敗。共和派や社会主義派の
勢力が強まった。それを打開するため、1870年7月からのプロイセンのビスマルクに挑発された結果、不十分な軍備でプロイセンに宣戦布告。

なぜメキシコ干渉に失敗したか?→アメリカの圧力、プロシアとの関係悪化。アメリカは南北戦争を集結させ国内情勢にケリをつけ、アメリカ大陸へのヨーロッパ列強の介入に反発、メキシコのファレスを支援。

第2帝政の終焉

世論やビスマルクの陰謀によって、プロイセンとの普仏戦争に突入。その戦争中に皇帝が
捕虜になってしまったことでパリで暴動が起き帝政が倒れることになる。

ナポレオン3世は1870年9月1日、セダンの戦いでプロイセン軍の捕虜となり敗北した。この報道がパリに伝わり、9月4日にパリで暴動が勃発。民衆は9月議会に帝政の廃止を宣言させ、ティエール(間違ってるかも)による国防仮政府(臨時政府)が発足した。

9/20 国防政府の外相ジュール・ファーブルがビスマルクと会談するも停戦ならず。この政府は戦争を継続。

パリが包囲され、食料、燃料不足から12月に12000人、1月に19000人が死亡。
1871年パリ占領。
1871年1月28日、プロイセン軍がベルサイユを占領。臨時政府は降伏を条件に3週間の停戦と選挙実施を約束。
1871年2月8日、選挙実施、王党派が勝利。ティエールが共和国行政長官に。2月中に新政府はドイツと講和を結ぶ。1871年2月26日アルザス ロレーヌ地方をドイツに割譲。賠償金50億フランを支払うことになった。(プロイセンは1871年1月にドイツとなった)
1871年3月1日、新政府はナポレオン3世の廃位を宣言。第2帝政が終わる。
ナポレオン3世は解放され、イギリスへ亡命。
腎臓病が悪化しイギリス・チルズハーストで1873年1月9日 客死。享年64歳。

第2帝政崩壊後
1871年3月フランクフルト講和条約。
1871年3月18日、政府軍がモンマルトルで国民衛兵の武装解除をするところ、ル コント将軍、クレマン トマ将軍が捕えられ銃殺される。ティエールの政府はベルサイユに拠点を移す。変って国民衛兵中央委員会がパリを支配。しかし、労働者を中心とする民衆はこの講和を不満とし交戦を支持。
1871年3月18日、社会主義者を中心にパリ コミューンが誕生する。1871年3月26日、選挙が実施され28日、市役所広場にてパリコミューンの成立が宣言された。

しかし政府軍はドイツの捕虜になっていたフランス軍兵士の帰還を認められ、再度、ドイツに援助された政府軍が4月2日、ヌイイ方面から攻撃。
破れ1871年5月28日までに崩壊。(1871年5月21からの1週間を「血の1週間」とよばれた)
再度ティエールが大統領に。しかし、王党派においおとされる。
王党派と共和派の対立が続くが共和派が1票差で勝利、1875年に憲法が制定され、第3共和制が確立。
しかし、1877年マクマオン大統領が議会解散を強行したため、大統領は議会の解散権を持たなくなる。結果、第3共和制が安定する。

ナポレオンの甥。「馬上のサン シモン」と呼ばれた。
シャンゼリゼ通りは当時完成。
本格的な産業革命の実現、鉄道網の発達に貢献。
牡蛎の養殖を産業化し、アルカッションは高級保養地となる。
鉄道の整備もさかんに行なわれた。
年金制度の創設。労働者の労働条件を改善など。


帝国主義維持、人気の維持のため、シュヴァリエの提案にのり万博開催。
既製服の登場のきっかけとなった。
1855年 2回目のパリ万博

第2帝政時代に万博が開催される。
1867年のパリ万博を頂点に下り坂となる。



妃はユージュニー皇妃。


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