現在のパリの街並みは、ナポレオン3世の統治下で1853年6月にセーヌ県知事に任命されたジョルジュ ウージェーヌ オスマン男爵(Georges Euge`ne baron Haussmann)の手によるもの。オスマンはセーヌ県知事を16年務めた。
英語でセーヌ県知事は、perfect of the Seineという。
1853年から1870年にかけて行われたパリ改造工事は大きく分けて3つの時期に分けられる。
当時のパリ
産業革命によって、パリは中世の都市の構造のまま人口が急激に増加。1866年にはパリの人口は200万人を突破していた。
手法
- まがりくねった街路を直線化し、道幅を拡張する。並木道のヴールヴァールを導入。
- 公園の拡張
- 複数の広場を放射状にのびる直線道路で接続。
- 下水道の整備
橋を建造。
バリケードの構築を難しくし暴動を起こりにくく、鎮圧しやすくした。
コンコルド広場、シャンゼリゼ通り、凱旋門。 夜にはガス灯がともるようになった。 建物の密集した貧民街を一掃した。
建物の高さや正面の装飾についても制限を加え、統一感の取れた町並みを実現した。
第2帝政初期にはパリの人口が100万人を突破していた。 入り組んだ路地のため犯罪が横行。 悪臭を放つ露出した下水溝のためコレラなど疫病の流行。上下水道を整備。 1858年にはオペラ広場から7本の道路が放射状に配置され完成 1859年パリは12区から周辺11の市町村を編入し現在の20区体制となる。
オペラ座は都市計画の目玉。設計コンペでシャルル ガルニエが担当にきまる。バロック様式のものと規定されていた。 1875年に完成しオペラ ガルニエとなる。大理石とブロンズを多用した造り。 新しいオペラ座、オペラ バスチーユ完成後、現在はバレエ中心に催しを実施。
バロック的な都市計画。強力な決断力。 オスマンは建築家ではなく、政治家。男爵。 シャトレ劇場。サーカスやオペレッタの上演。
オスマンの計画は、第3共和政にも継続された。 ボンマルシェ新館(1872)、エッフェル塔(1889)、グランパレ(1900)、プチパレ(1900) オルセー駅、シャイヨ宮(1937)。 重厚な石造りの外壁と鉄骨構造、ガラス天井。
カーネギーメロン大学ハワード サールマン「パリ大改造 オスマンの業績」(1971) (Haussmann: Paris Transformed - Howard Saalman 1971 -ISBN: 0807605832)
これまでの街路が近隣の生活に中心を置いたものだったが、新しい街路は 交通のためであった。
オスマンは1870年1月に失脚したが、彼の都市計画の影響は1900年頃まで続いた。またブリュセル、ミラノ、ローマ、バルセロナ、アントワープ、ドレスデンなどでもこれに倣った都市改造が行われた(らしい)
